2015年5月13日水曜日

第二十三回 南座歌舞伎鑑賞教室「色彩間苅豆」

2015-05-13 @南座


一 解説 南座と歌舞伎
 ご案内 桂九雀

二 色彩間苅豆(いろもようちょっとかりまめ)
 かさね
   
かさね 上村吉弥
与右衛門 中村松江


南座は歌舞伎発祥の地に現存する日本最古の芝居小屋だという。
かねてから、一度は南座で歌舞伎を観たいと思っていたけど、わざわざそのために新幹線に乗ってゆきたいとまでは思わない。

ところが、急に京都へ行く用事ができたので、帰りに時間があれば寄ってみたいなと、番組を調べたら、なんとうまい具合に5月8日からの1週間だけ歌舞伎鑑賞教室をやっている。しかも、全席自由席で3千円というありがたい話だ。

演目は全く知らなかったが、紹介記事を読むとどうやら怪談「真景累ケ淵」と同根の話しらしい。これなら昔映画で怖い思いをした記憶があって、多少は覚えている。

役者も主要な2人はいずれも過去何度か舞台を観ているのが、これまでは大看板に隠れたような役が多かったが、ここではいずれも大役。じっくりと彼らの芝居が観られるというのも楽しみだ。


開演の1時間半ほど前に到着したがもう並んでいる人がいる。でも10人程度だったから、チケットは買っておいたが、並ぶのはやめて、祇園辺りを散策。
戻って1時間前。
行列が3倍位になって「最後尾はこちら」のプラカードを持った整理担当者まで出ている。
こりゃいかん、とお尻についた。良い天気でむしろ汗ばむくらい。開場は開演の30分前と聞いていたので、ここで30分も並ぶのは辛いなあと思っていたが、行列が長くなって南座前の狭いエリアでは収まらなくなったためか、予定より早く開場された。

おそらく30番目位に入場できたので、席は自由席だから、どこでも好きなところを選べる。祇園の綺麗どころが並んでいる写真をよく見る1階桟敷を経験してみたいとも思ったが、やはり、見晴らしの良い場所は2階の最前列中央やや花道寄りが個人的には理想だな、と思っているので、かねてからの果たせぬ夢を果たすことができた。


解説は桂九雀という落語家(知りませ~んでした)で、内容は多分毎回変えているのだろう、今回は大太鼓による演出効果や、舞台機構の話など。これは国立劇場の鑑賞教室と似たような趣向だったが、やはり、南座ならではの話もあって参考になった。舞台額縁上部(正しい表現を知らない)に残る「破風」の謂われ(幕府公認の小屋であることの名残り)になるほど歴史を感ずる。
また、今回この解説で初めて「芝居」という言葉の意味(かつて観客席は芝生の上であった。)を知った。これまで日常的過ぎて疑問さえ感じなかったのだけど。

国立劇場にはない趣向として、観客の中から希望者に舞台役者の着付けを経験させるというお楽しみ企画があったが、果たして手を挙げる人がいるのだろうかと思ったが、若くて美しい女性に限るという条件にも関わらず10人位?が手を上げた。
学校の行事として歌舞伎鑑賞に来ている中・高生が大勢いて、彼女たちはテレもせず手を上げたので驚いた。
着付けだけなので、顔などの化粧はなかったが、出来上がって舞台に登場した可愛らしい中学生の晴れ姿にやんやの喝采で、館内は大いに湧き、和んだ。


さて、本篇は「色彩間苅豆」と言う。
何と読むのか?
「いろもようちょっとかりまめ」と読ませるのだけど、これはなかなか難しいね。
少し、ずれたところが粋というか、味わいだと思うが、それにしても「間」を「ちょっと」という砕けた口語で読むとはもう想像の域をはるかに超える。

「真景累ケ淵」は三遊亭円朝が創作した怪談噺だが、「色彩間苅豆」(四代目鶴屋南北作)も同じく茨城県の鬼怒川沿岸を舞台にした累(かさね)という女性の怨霊の物語を素材にしている。
「累ケ淵」という地名は現存するのかどうか知らないけど、その累さんから発している。

「累もの」はそれぞれに微妙に筋・役どころを異にしているが、「色彩間苅豆」では、浪人与右衛門はかつて殺した男(助<すけ>)の娘とは知らず腰元累<かさね>と道ならぬ恋に落ち、心中を試みるも与右衛門がドタキャン。
彼を追った累は木下川(<きねがわ>と読ませるが元は鬼怒川のこと)のほとりで与右衛門と再会する。

芝居は不義密通の罪で2人を追う捕手2人が、浅葱幕(解説で習ったばかり。舞台装置を覆う水色の幕)の前で逮捕への決意表明をしながら経緯を説明したあと、その幕がさっと降りて(振り落としというらしい。)、木下川の景色が舞台いっぱいに広がる。

そこに2人が花道を通って登場し、累は自分のお腹を与右衛門に触らせ不義の子を宿していると教え、かくなる上は一緒に死のうと必死に口説く。さすがに気持ちを動かされた与右衛門は心中を決意するが、そこに川面を卒塔婆に乗った髑髏<しゃれこうべ>が流れてくる。髑髏には鎌が突き刺さったままであった。
おお、コワイ。

与右衛門が拾い上げて卒塔婆の文字を読めば、そこに「俗名・助」の名前が。おののいた与右衛門は卒塔婆を折り髑髏を鎌で打ち割る。すると、累は自分が打たれたように苦しみ草むらに倒れこむ。
そこに追手が来て乱闘になるが、与右衛門は返り討ちにする。
しかし、我に返った累の顔は半分が醜くただれ、片足も不自由になっていた。驚く与右衛門。もう心中どころではない。
必死にすがる累に父親殺しの顛末を聞かせ、鏡で累に自分の顔を見させるのだ。狂乱する累。これを鎌で斬り殺すよ右衛門。

悪行の因果が哀れな父と娘に災いをする恐ろしさ。
とどめを刺してその場から逃げ去ろうとする与右衛門は、花道七三のところで止まり(これは歌舞伎のお約束だが、今回は別の事情がある。)、先に進もうとしても足が出ない。

橋の袂から累が怨霊となって与右衛門を引き寄せるのだ。
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この芝居は、清元による舞踊劇で台詞のやりとりは少ないのだけど、全篇の2人の動きがまさしくしなやかで緊張が漂う。
コワイけど美しい。残酷だけど美しい。哀れだが美しい。


客席はなにせ鑑賞教室であるから中高生も多く、大向うも少なく、多分録音による掛け声もあったように思う。
ここぞという場面での拍手などもちぐはぐな場面もあったが、主役の御両人は、申し訳ないくらいの熱演で非常に好感した。
吉弥丈はこの鑑賞教室に第1回目から主演しているそうだ。
松江丈の舞台を観る機会は多くて去年からの鑑賞記録では今回で5回目だった。

これからも、「教室」以外の大きな舞台でも観ることができるだろう。大いに楽しみにしていよう。

♪2015-48/♪南座-01